写真の使い方
写真の役割っていろいろあると思うんですが
個人として、写真と関わることを考えた時、
・私が写真を通して、外の世界と繋がる
ってことももちろんですが
・私が私と向き合う
ってことに使えたりもします。
それも、・今の私と過去の私と
の場合もあります。さらに言えば、
・いづれ過去になるであろう今を、親が子どもに残す
ってこともできるんですね。
今日はママのための写真教室だったので、そのことを思いました。
人の記憶ってのは、悲しい、辛い、ことの方が残るらしいです。
たぶん、同じことを繰り返さないように、覚えておいて、次は避けようって
そんなプログラミングなんだろと思います。
いいことは、忘れていても、また起こったらそれはそれでいいですもんね。
だから、辛い方が忘れないようにできているらしい。
けど、日常の多く、そこまで辛くもないことは、
いいも悪いも選別せずにサラサラっと特になんとも思っていなかったりします。
そんな、どっちにも分類されないような、
どこか彼方におしやられた無数の出来事の中の一つを
コショッとくすぐられたり、光を当てらることができるのが、
これ『映像』だと思うんですよね。
写真でも、ビデオでもいいと思います。
(ま、文章って手法もありよね〜。)
これは過去の自分との共感っていうか。
フィルムカメラの時代は、
「あ、後2枚残っているけど、もう現像出しとこー」ってときに
なんとなーく目の前の景色や家族をあと2枚もったいないから撮って使い切ってしまったり。
装填するときに試しに何回かシャッターきって、
それでカウントを合わせるときに、目の前のものをなんとなく撮っていた。
そんなことがありました。
でも後からみたとき、その、たまたま撮ったみたいなのに
写っていたパジャマ姿の写真とか
昔住んでいた家の家具やカーテンの柄。
「あ~これこれ!そうだった~!!!」ってやけに反応したりするんですよね。
「このパジャマ好きだったー!」
「ぬいぐるみ、これが好きだった~!」みたいなね。
その時、どうでもよかったはずの記憶に電球が灯るというか。
使ってなかったところが動きだすようなそんな感覚が楽しかったりします。
そんな写真は、多くの人に役立つことはないだろうけど、
誰かのどこかを明るくできる、そんな力があるんだろうな~と思うのです。
ドラえもん風に言えば『思い出喚起スイッチぃ〜』
ってなことを、写真のレッスンではちょこちょこお話したりもします。
でねー、昨日、別の機会に思ったことは
工夫や苦労がいいものを生み出したりするってことでね。
不自由だからこその色味というか強みというか、
プラスに転換できることってあるもんだな〜と思うのです。
そういうのを、
妙っていうか、絶妙っていか…
巧みっていうか、巧妙っていうか…
そう言うんだろうな〜。
不自由と不自由の欠けた歯車が巧く噛み合った瞬間とか、
上手く混じり合った瞬間とか、
『ハイ!これ来ました〜!』っていうね。
それって『鳴かせてやろう…』というよりは
『鳴かせてみせよう…』あるいは『鳴くまで待とう…』のスタンスなのかなっと。
『鳴かせてやろう!』も否定はしないですけどね。
平和にやってくれたら、それはそれでいいのかもしれません。
写真だと
『この時間、この景色、そんなときに何ともフォトジェニックなこの人が、タイミングよくもまー今ここに!』
みたいなことが、人の心を動かす一つなんだと思うんです。共感になる。
これは言わば、私と外の世界をつなげてくれたりするきっかけになったりします。
そういう写真はどんどん外に出して、人の目に多く曝した方がいい。
歩きだすかもしれないから!
そんな機会をね、どんどん作っていきましょうね。
とにかく、今日の写真講評会はとっても感動したのでした。
イオンシネマ貸切で、上映会もやっぱりした方がいいよね!
写真はアンパンマンを連れ歩く次女。
「今日はだれも知り合いには合わない」ってときには
アンパンマンをお供にすると言う。
「いっつもアンパンマン連れて行ってあげたらいいやん!」って私が言ったら
「だって〜、この年齢やで!」と自ら言う次女7歳。
いいんじゃないの〜好きなんだったら…
で次のキャンプに連れて行ったのがこの子。
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