違和感
スーパーにはあんまり行かずに宅配で食材を済ませることが多いのですが、
仕事の帰りに「ひなあられ」を買いにちょいと寄りました。
お雛様を出したら、「ひなあられ」が要る要る〜って
雛祭りより「あられ」が大事な子どもたち。
そしたら、そのスーパーに雛祭りの歌が流れていたのですが、
子どもがうたっているよくあるものではなく、
演奏だけの「インスト」っていうか、そういのがエンドレスにながれていまして、それがなぜか、ラテンアレンジでね。
曲間にもラテン音楽のリズムがすごくって、間奏のとこにエレキギターとか入ったりしてね。
そしてまた繰り返されるおなじみの雛祭りフレーズのラテン版。
ちょっと酔いました。
今日は、私の写真をもって、あるメーカーさんにお話に行きました。
営業っていうのだと思うのですが、私にはいつも難しいです。
写真が撮りたいだけなので、いいと思う写真が撮れるまで一生懸命やるだけで、そこに値段とか、手数料とか、数字にするのをどうしたらいいかほんまにワカラン。
そんなこと言ってたらダメなんですけどねー。ずっと言ってますわ。
先日、小林美香さんの共著
『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』出版記念クロストーク 小林美香x山崎明子 in 大阪 というトークショーに行きました。
そこから色々と頭がぐるぐるしていて、その時も飲んでないけど頭がクラクラ酔ってしまいました。
小林さんには年末に写真を見ていただきまして、その時おっしゃっていたことがまた厚みを増して感じられました。
そういうこともあって、
私の見ている風景というのは、誰かに刷り込まれた世界なのか?
どこで刷り込まれたんだろう?
ということが気になって気になって。
例えば、住宅展示場のモデルルームや商品カタログの背景に広がる家の風景。
不自然すぎるやん。テレビもないし。
子どもがいる設定なのに、そんなことってどうなん?
あるいは、日本製の日本で作っているということを大切にしている製品なのに、
カタログのモデルが白人の赤ちゃんってなんでなん?
とか。
まー、ハーフのモデルちゃんとか可愛いですけどね。
うん、赤ちゃんはみんな可愛いよ。
外国人のモデルは高いから、ハーフの赤ちゃんも可愛いに決まっている!って
刷込まれすぎちゃうの?
家の改造をした Before After のテレビ番組を見ていても思うのですが、
改造前にあんなに散らかっていて平気で暮らしていたのに、この状況はいつまで続くんだろう…
いや、狭くても整理はできると思うんですよね。
そういう人もたまにはいらっしゃるんでしょう。
けど、諦めの果てなのか、片付けをそもそもしない人なのに、
箱を綺麗にしても意味がないんじゃないの???って
収納が狭いとか、そういうレベルではないと思うんですよ。
例えばさ、机がひっくり返ってベットになります。
とか、
この下に来客用の座布団が収納できて、来客時にはプイッとひっぱると机が伸びて…
なんて家具を作っても、片付けない人は、その上にいろんなもの置いているから
いざ使う時にはその上のものをどかすとこから、おっこいしょってなって、ほんまにそれ使いはるやろか?とか、ひねくれた見方をしてしまいます。
いや匠はみんなすごいと思いますよ!
は!話が逸れた。
何にせよ、それを使いこなせているか、自分に置き換えられるか??
それってほんまに?私にフィットしている?ってところがちょっと浮いている。
私もこうならなくっちゃ!みたいな高度経済成長の憧れの団地の図。
みたいなものを、追い続けるのはもういいんじゃないの?
バブルを知らない世代の人は、きっとそうなんじゃないかな〜と思うのです。
違和感、大。
雛祭りの歌がラテンアレンジくらいの違和感。
「いいけどぉ…やっぱちょっと無理〜」って感じ。
もっと近いところで、共感を得ながら提案できるんじゃないのかな???
もっと違う切り口で、資本主義は終わるんじゃないかな???
とか思えてきました。
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